⚠この記事は宗教や過激な思想の要素を含みます
みすてむアドベントカレンダー2023 21日目
この記事は僕がたむろっているMisskeyインスタンス、みすてむのアドベントカレンダー21日目の記事です。
昨日はにょむさんの結局コンサルって何やってるんですか?|にょむでしたが、僕もITコンサルタントなので分かりみが深い…… 権力を持てる上流に向かうほど手は動かせなくなるんだよなぁ……。
メンタルと哲学
メンタルが強いことでお馴染みになりつつある僕ですが、僕のメンタルの根底には自己哲学が存在するからでその成分をちょっとでも人類にばら撒けて世界がちょっとでも良くなったらいいなって思っています。
男女間に友情は成立するか?
男女に友情は成立するか、という命題はよく巷で議論されるものですが、あなたはどっち派ですか?
…………
さて、ちょっと考えてもらったところで僕の結論を出したいと思います。
僕の答えは
「成立するタイミングもあるし、成立しないタイミングもあり、それは連続的で陸続きだ」
友情と愛情の間に明確な線引きはありません。 それはそのはず、友情と愛情に明確な定義はなく、それを定義したとてそれは誰かしらの意思や感覚によって定義づけたものですから個々人によっても違います。その感情を友情と呼べば友情でしょうし、愛情と呼べば愛情になります。 だから友情から愛情への変わり方は人と人の組み合わせの数だけその速度や方向性が存在し、それが恋愛関係になる場合もならない場合もある。 まぁ現実には性欲なども関わってくるのでこんなに友情↔愛情の一軸にキレイじゃないとは思います。
確かにこれはちょっとずるい答えかもしれません。
成立するか・成立しないか、という命題を話しているのに、「グレーだ」と言ったのですから。
脱構築って何
なぜ僕がこんな話から入ったかというと、デリダの「脱構築」を説明したかったからです。
我々は先ほどのように物事を単純な対立で語りがちです。
- 聞かれてもいないのにその芸能人の不倫が善なのか悪なのか語ります。
- よその結婚相手について勝手に評価して、羨ましがったり批判したりします。
- 雨が降ったら「悪い天気」、晴れたら「良い天気」と表現します。
- 政治論争においては、与党か野党かという党派での判断が多いでしょう。
こういった2つの概念が矛盾したり対立していることを「二項対立」といいます。
二項対立は捉えるのが簡単です。善か悪か、敵か味方か、好きか嫌いか。 本来世界はもっと複雑なはずなのに、情報を1bitで済まそうとするのでどちら概念も正しくなくなってしまいます。 どちらが正しいか?どちらも部分的に正しくて、どちらも部分的に間違っているから議論になっているのではないですか。(例外はある)
この二項対立の垣根をぶっ壊し続けて、白か黒じゃないグレーの部分の情報量を大きくしていくんだ、というのが僕の解釈として簡単に表現する「脱構築」です。
さっきの例でいえば、そもそも「友情は絶対に成立する!」というのも「友情は絶対に成立しない!」というのもおかしな話。 そんなことは「ケースバイケース」で「人と時と場合による」なのでそれをどちらかに割り切ろうというのが現実と乖離しています。
宗教って新たな価値観を提供するサービス業
宗教とは総じて「今、現代のその国の価値観において」幸せじゃない人に、「新たな価値観を提供する」ことで幸せになれるというサービスです。
- お金がない?「それは清貧といって清く行いが正しいからです」
- 結婚できない?「結婚なんてすれば俗世に囚われて悟りを開けません」
- 毎日つらいことばかり?「それは神様の与えた試練でそれを乗り越えれば天国へ行けます」
- 抑圧されていて辛い?「それは家父長制の社会と男が押し付けているものです」
このように、人間は現状を変えずとも価値観をいじってやることで主観的に幸せにすることができるのです。 オタク用語的にはメリバでしょうか。 僕はメリバ大肯定派。どんなに不幸に見えようと、不幸だと勝手に判断しているのはあくまでその物語の受け手です。
脱構築と正見
反対に、仏教のいう悟り、とはこの価値観判断をなるべく持たないというものです。 (まぁこれもまた世を捨てた生き方をして修行すれば幸せになれるっていう価値観ではあるんですが……。) 物事はそこにそう在るだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
物事に価値観でもって一喜一憂してしまうから欲がどんどんと大きくなり、求めるものが手に入らないことを辛く思ってしまう。 その欲をコントロールし、極限まで凪いだ精神が「悟り」です。
その悟りに至るには物事を正しく見ることが大事と仏教では説かれています(正見)。 僕はこの「正見」というのは「脱構築」だと思うのです。 物事の判断をマルかバツか、成功か失敗か、どちらのイデオロギーかという1bitで割り切ろうとすることを捨てて、複雑な世界を複雑なままに認識すること。
その結果として物事を判断する価値観というのが一時的で属人的なものとして人生の中心から外すことができる。 脱構築した先は更なる二項対立です。その脱構築をし続ける試みが悟りに繋がる修行だと僕は解釈しています。
脱構築と認知の歪み
僕がたまに話題に出す、認知の歪みは大半を脱構築によって(論理的には)解決できると思っています。
認知の歪みのパターンとして代表的なパターンが挙げられています。
- 感情的きめつけ 証拠もないのにネガティブな結論を引き出しやすいこと
- 選択的注目 良いこともたくさん起こっているのに、ささいなネガティブなことに注意が向く
- 過度の一般化 わずかな出来事から広範囲のことを結論づけてしまう
- 拡大解釈と過小評価 自分がしてしまった失敗など、都合の悪いことは大きく、反対に良くできていることは小さく考える
- 自己非難 本来自分に関係のない出来事まで自分のせいに考えたり、原因を必要以上に自分に関連づけて、自分を責める
- “0か100か”思考 白黒をつけないと気がすまない、非効率なまでに完璧を求める
- 自分で実現してしまう予言 否定的な予言をして、行動を制限し、その結果失敗する
全部脱構築できそうですね。特に0か100か思考なんかは脱構築の対になる二項対立そのものです。 「二項対立じゃね?」「それって嘘じゃん?」「極論言ってね?」を合言葉に認知の歪みテストを脱構築してみましょう。
問題の一部はこちら↓から
認知の歪みテスト脱構築
人生は成功するか失敗するかのどちらかであると思う
はい、でました分かりやすい「二項対立」。
そんなわけない。終わり。
周りのみんなはすごいのに、自分は全くダメだなあと感じることがある
「周りのみんな」←全員の全部分があなたの上位互換っていうのは嘘じゃね?
「自分は全くダメ」←まったくダメなわけなくない?ダメなところと良いところがある
悪いことが一つでもあると、すべてが悪くなってしまうような気がする
悪いことが一つあっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。
嘘言ってる。
他人の責任まで背負い込んでしまいがちである
他人の責任と自分の責任のどちらもが存在していて、全部自分でも全部相手でもない。
極論すぎる。
やる気がないときは、何をやってもうまくいかないと思う
「何をやっても上手く行かない」
この部分が極論ですよね。上手く行くかもしれないし、上手く行かないかもしれない。
とまぁこんな風にしていますが
そりゃ論理的にはそうだろうけども!!!!!
自分ごとになったときにネガティブ思考に引きずられてしまうのはあることだと思います。 僕ですら体調が悪いときとおなかが減っているとき、暑いとき寒いときはダメです。
まだまだ修行が足りませんね。
今回この記事で「脱構築」というフレームワーク、概念を獲得したことによって「二項対立の罠」が存在していることが認知できたと思います。 二項対立は楽です。そりゃ1bitなので。
その間違っていようともわかりやすく楽で身を預けてしまわぬよう、心のどこかに脱構築があればいいなと思います。
オススメの本
現代思想入門/千葉雅也 https://amzn.asia/d/atWLsvu
ここ数年で一番良かった本です。 脱構築から現代思想・哲学を噛み砕いて説明されています。
完全教祖マニュアル/架神恭介・辰巳一世 https://amzn.asia/d/6UhGZDr
なかなかこういったメタ宗教的な本無いんですよね。内容は……ふざけているけども……。
明日はTanakaniraさん
内容は今のところ不明……。何書くのか楽しみですね~