ラノベタイトルという発明
ラノベのタイトルはどんどん長くなっている. ねとらぼさんの調査でもちゃんとデータとして出ている.
その事実からなぜ長くなったかを考察するわけだけど,長いタイトルは中身が分かりやすいっていうのが圧倒的にある.
例えば代表的なライトノベル
ゼロの使い魔
これを見て,ツンデレの落ちこぼれの女の子に召喚されて振り回される内容だとわかる人はほとんどいないだろう.
でもこれを
ツンデレ落ちこぼれの女の子に伝説の使い魔として召喚されました
というタイトルにしたらどうだろうか.
「改変するなカス」と思われた原作ファンには深くお詫び申し上げる.*1
ここまで書いてしまうと情緒も減ったくれもないという意見もごもっともだが,内容は一発でだいたいわかる.
だいたいわかるとこの内容に興味のある人が手に取ってくれるという寸法なわけだ.*2
このライトノベルのタイトルが長くなった背景には,なろうも深くかかわっている. 「小説家になろう」は言わずと知れた小説投稿サイトであり近年はここから書籍化することも多い.
おすすめのタイトル集も置いておくのでお暇なときにぜひ読んでみてほしい.
なろうでは無数の作品が跋扈しており,そのクオリティは千差万別である. たくさんのタイトルが並んでいると,結局どれを読んでいいのかわからなくなるので,タイトルから面白そうなものに手を付けることがほとんどである. いくら良い作品を書いていても読んでもらえなければ意味がない. とりあえずタイトルで興味を引いて中身を開いてもらう手段こそがタイトルである. 「僕は友達が少ない」を始めとする文章系のラノベタイトルが一通り流行ってから,ここ2,3年でさらにタイトルの長文化が進んでいるのはこの「なろう」の影響が大いにあると思う.
ここからは個人の見解だが,中身がタイトルからわかっていると興味を持った読者はその興味のところまでそんなに面白くなくてもついてきてくれるような気がする. 逆に内容が分からない状態でポエミーなよくわからないけどクライマックスには伏線となるような文章とかを挟んじゃうと脱落者が結構出る体感がある. 大して文章力がなくともタイトルで興味を持たせるという一点だけでも多大なメリットがあると思う.
タイトルの担う役割の増加
この情報あふれる情報化社会においてタイトルの重みが増していく動きはいたって自然だ. 検索結果やTwitterで流れてきたものの情報が多すぎて,タイトルでだいたい内容をとらえるようになる.
僕のように文字を読むのがそもそも好きな人はニュースであっても内容までいって詳しく記事を読む可能性が高いが, 実際多くの一般人はタイトルだけで何となく世間の出来事を知った気になっている.
ここまでくると記事の内容よりもタイトルが重視され,タイトルはプロパガンダのようにタイトルだけで独り歩きするという非常にまずい実態が浮かび上がってくる.
この事実を物書きはわかっているだろうか. おそらく意図的にわかっていてミスリード的なタイトルを付ける輩もいるので,まともにその出来事を知るのであれば内容を含めて複数ソースを集めることは今さらに必要なスキルだ.
例えばこれ,ひどすぎて言葉も出ない.
トランプ氏、記者会見場近くで発砲かhttps://t.co/NCgHMSIji5
— 共同通信公式 (@kyodo_official) August 10, 2020
まぁそのあとまずいとわかったらしくて一斉にサイレント改題してますけども…….
自己啓発本ってあるじゃん?
自己啓発本ってまぁ昔からあるわけなんだけど,最近の自己啓発本は特に良くないなぁって思う. もちろん一概に自己啓発本が悪いと言っているわけじゃなく,タイトルが良くないと思っている.
これも例のラノベの系譜を踏んで,結論が,内容がタイトルで透けているのだ.
「ラノベでタイトルの重要性をお前は述べてたんじゃないのか!別にいいじゃないか!」とも思うかもしれないが,自己啓発本に至ってはそういうものではないと思う.
超筋トレが最強のソリューションである
この主張自体に僕は何の反感も持っておらず,どちらかというと筋トレに賛同する立場であるが,この本を手に取る人間というのは その時点で既に筋トレをしようと思っている奴なのである.
自己啓発本を読む奴はそもそも自己啓発できてるっていうのは全くその通りではあるが,既に自分の中で結論の出ているものをその本の内容によって肯定してもらうことで快感を得る手段になりつつあると思う.
あとは既に信仰している憧れが書いている本. これもだいたい極論を述べててそれを鵜呑みにしてしまったりする.
これだけ様々な考え方や思想,主義主張が世の中に流れている中,自分の考えに合う,自分の耳に心地の良いものだけを摂取していませんか?
自己啓発本はそもそも自分の考えに無いことを取り入れたり,新しいことを試す切っ掛けとしてほしい. もちろん箇所箇所で自分の信念が肯定されるところがあっても良いと思うが,その肯定される快感を求めに本を探してはならない.
見たくないものを見ない
情報があふれればあふれるほど探しさえすればどんな極論でも同じようなことを述べている人はいるものだ. 陰謀論なんかはその最たるもので,全くでまかせであっても数人同じような考えの人が集まってお互いがお互いを肯定し始めると「この世の真理に気づいた!!」となってしまう.
常に情報や耳は外に開くべきだ.
自分と近い人というのは同じような人と関わっている可能性が高いので,自分の持っている情報と違うものというのは運ばれにくい.
有益な情報というのは普段あんまりかかわりが薄かったりする人からもたらされるものだというのは僕の経験則であるが,おおよそ間違ってはいないと思う.
政治的な思想でも技術的な情報でも医学的な情報でもなんでも,情報を受け取るチャンネルが増えたことは望ましいが,その情報は玉石混合である. タイトルで自分が信じるもの,自分の考え方と同じものを選んで取り込み続けるのは自分の自我をどんどんと大きくし,その自我は自身を飲み込むだろう.
情報であっても食べるもののバランスは取れということを昔に書いた.情報の食べ方についてもちょっと書いたので心の片隅においてくれると嬉しい.
2019年に「いつか怪物になるわたしへ」というnoteがバズったことを僕はいまだに覚えている. ここでリンクを貼らないのは彼女自身がそのnoteを消したからであり,知らない人のみがちょこっと魚拓を調べてほしい. 山月記の「虎になる」という表現と自身の「自我」について絡めた秀逸なポエムであった.
それから僕はずっと「怪物になる」ことを恐れているが,怪物になることはきっと止まらないと思う. だが見たくないものを見ず,自分の中の自我をずっと肯定し続ければきっとそれは怪物を生むことを早めると思う. 自分の自我を飼いならすためにも食べるものには気を付けて,感情には気を付けて.
人間は皆,自我という猛獣使いなのだから.