ぺんぎんさんは怠け者

ぺんぎんさんがなんとなく日常で思ったことを長文で発信する為の場です

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食べるものには気をつけろ

食の重要性

自分語りから始めるが、私の母は管理栄養士だ。昔は某企業で子を持つ母親や働くおじさん達の栄養相談に乗ったりとしていて、今は保育園で献立を立てたり調理をしたりもしてるらしい。
そんな家庭環境を普通に育ってきたが、今考えれば恵まれた環境であると思う。
母の料理はとても美味しく、そして知識に富んだものである。当たり前にバランスが整えられ、色合いが整えられ、その上季節の野菜や地域の食材などを使用している。(まぁたまに手抜きしたなっていうものも無くはないが)私に好き嫌いがほぼ無いのも母の苦心があってのものだと思う。
私は食育というものの英才教育を受けてきたとも言えるだろう。
一人暮らしをするようになった今でも私がほぼ毎日夕食を作り、栄養を考え、季節を考えているのは母からの影響が大きい。(我が弟はそうでもないらしく具なし冷やし中華とか食べてる)

大括りでの食べ物

私が食べるものに気をつけているのは、私を構成する要素が全て食べ物から出来ているからだ。
何を当たり前のことをと思うかもしれないがこれを私は口にする食べ物に限定しない。それは本であったり、テレビであったり、インターネットの情報であったり、音楽であったり全てのインプットを食べ物と呼んでいる。
この自分に入れる情報を取捨選択するのはとても難しい。私が一番嫌うのは情報を受け身だけで取得することだ。筆頭にあげるのはテレビである。受け身でのみ情報を取得すると思考能力の無い人物になる。
しかしながら取捨選択をしすぎるとそれはそれで化け物となる。反ワクチンなどが良い例だ。耳に心地の良い情報ばかりを食べるために病を抱え、そして薬も口にしなくなり死に至る。

私のレシピ

私が献立を立てる時、メインのタンパク質(肉、魚、卵など)を決めてそれと合わせる野菜を考える。情報も同じである。意見が分かれるものは必ず逆の意見のものを摂取する。日本ではなかなかディベートが行われないが、情報が氾濫する現代ではこうして反対意見を合わせて受け止める必要性があると思う。合わせて食べたとしても偏りは完全になくなるということはないが少しは偏りが減らせるだろう。自分の今の考えと反対の意見を取り込むことを嫌がる人種がいる。これはわからんでもない。自分が信じているものが否定されるというのは心地のいいものではないだろう。だが、それは自分が否定されているのではなく、その一意見が批判されているのだ。そこを見誤らずに反対意見を飲み込んでいただきたいものだ。

もうひとつは毒を取り除く(切り分ける)事だ。ここで言う毒とは「感情」である。感情は情報を直視する上で大きなバイアスをかける。例えば、パワハラ問題などが世間の話題に上がった時に記事にはどうしても感情が乗る。受けた側がかわいそうだとかパワハラした人を許せないとか……。しかしそれは本質的な話ではない。どうしてパワハラが起こったのか、それは一個人が悪いのか、その集団の体質が問題なのか。そういった冷静かつ生産的な議論を展開すべきだと私は思う。
感受性の豊かな人は特にその感情に引きづられる。いちばん怖いのは感情的なものを食べすぎて自分が感情的になる事だ。
感情と判断を切り離さなければ、間違った判断を下すと私は考えている。人間の判断を狂わすものの大半は思い込みと感情だ。
ただ人間として生きている限り感情を失っては味気の無い人生になるだろう。だから自分の感情持ったまま、その感情を自分と切り離し客観視する。自分は自分であっても一つではなく多様な人格の集合体とイメージするのをお勧めする。そうすれば理性的な判断が期待できるだろう。

最後に

正直このように生きるのは生きにくい生き方なのかもしれない。テレビの理不尽なことや事件に憤る人生というのもまぁそれはそれで楽なものだと思う。
ただそれはメディアに感情を支配されて生きるということで私の人生であって私の人生でない気がする。
感情はただ自分だけのものであり、それを動かすのは自分で決めた方がきっと良いと僕は信じている。